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小学生からエリート校で実績を積み、高校、大学は主将。遂に阪神タイガースの監督に就任。いろいろな名監督のもとで学んだ野球はどんな野球を魅せてくれるのか!
(生年月日)1957年(昭和32年)11.25 (出身地)大阪市北区 (学歴)明星中→北陽高→早稲田
少年期はボーイズリーグ(故鶴岡一人氏創設・硬式少年野球)で活躍、高校野球の名門、北陽高校に入学し、3年の時には主将として、早くもリーダーシップを発揮する。
1975年、岡田は早稲田大学に入学し、東京六大学では首位打者・三冠王などのタイトルを獲得する。ここでも主将に指名され、持って生まれた指導者としての資質が見受けられた。
そして、1979年、当時としては最高の6球団(8球団は野茂・小池、6球団は清原)の指名を受け、相思相愛のタイガースが見事、交渉権のくじを引き当てた。
(野球成績)
1639試合出場
5496打数1520安打(生涯打率.277)
251(二塁打)・247(本塁打)・836(打点)・2540(塁打)
663(四死球)・767(三振)・56(犠飛)
オールスター出場8回・ベストナイン1回・ゴールデングラブ賞1回・新人王
(役職歴)
阪神タイガース選手会長(1985年)
社団法人日本プロ野球選手会理事長(1989年)
労働組合日本プロ野球選手会長(1993年)
中村勝広・川藤幸三・平田勝男、木戸克彦、中西清起などと『兄弟会』なるものを結成して親交を深めている。
岡田の指導者としての器がうかがい知れるこんなエピソードがある。
1985年、悲願の日本一を果した阪神球団は選手会長の岡田に対して、『一億ほど余っているので自由に使ってくれ』と言い渡した。選手会長の報酬として、岡田自身が全部、貰っても誰も文句は言わないだろう。主力選手で分けてもいいだろう。
しかし、岡田は掛布だけに『球団から一億好きなように使ってくれと言われたの選手・球団職員・グランドキーパー・球団食堂のおばちゃんなど日頃、裏方でお世話になっている人々を含め、頭割りして、配ります』と報告した。
ミスタータイガースの掛布だけには報告して置く配慮と裏方さんまで気にかける心配りは指導者として必要なことである。
だが、このシーズンを境にして、岡田の野球人生は下り坂になり、女性問題でマスコミに叩かれるなどし、遂に岡田にとって、屈辱的な日を迎えるのであった。
1992年4月25日、中日戦、5回1アウト満塁で打席の岡田に中村監督は代打を送ったのである。翌年、球団から戦力外通告を受け、1993年10月21日、広島戦の最終打席で『岡田コール』の声援を受け、一塁ゴロで阪神での現役生活に幕を閉じたのである。
その後、仰木監督の薦めでオリックスに入団。主に2年間は代打であったが、若手からの信頼は厚く。1995年9月の神戸グリーンスタジアムでの最後の試合でスタメン出場。2安打&ファインプレーの活躍で阪神ファンを狂喜させ、現役を引退したのである。
岡田の阪神に対しての思い入れを知るこんなコメントがある。
長嶋監督に対しての感想を聞かれたとき、掛布は『憧れの野球選手』と言ったのに対して、岡田は『ただのライバル球団の監督・・・』と言い放った。
その後、指導者として、オリックス2軍助監督兼打撃コーチ、阪神2軍打撃コーチ、2軍監督を歴任している。
尚、久万オーナーから『将来の阪神タイガースの指導者』だと言う約束手形を貰っているのは真弓明信と岡田彰布だけである。
神戸岡田会 役員名簿
会長 永安 満洲男(山陽電気鉄道会長)
幹事 西村 忠よし(みなと銀行頭取)
井植 貞夫 (塩屋土地社長)
木下 章夫 (木下真珠社長・神戸早稲田倶楽部会長)
富本 昭次郎(兵庫三菱自動車販売専務)
谷川 浩司 (棋王)
稲垣 嗣夫 (神戸新聞社社長)
清水 信一 (サンテレビ社長)

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